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第2部 第6章 基本的人権の限界

一、人権と公共の福祉  二、特別な法律関係における人権の限界  三、私人間における人権の保障と限界


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一、人権と公共の福祉

1 人権と公共の福祉の二つの考え方



5章までは、人権とは広くみんなが生まれながらに持っていて誰にも侵されないもの、ということを説明しました。








しかし、人々が社会の中で他人と共に生きる以上、人権は無制限に保障されるわけではありません。
当然に限界があります。もしも個人の人権を無制限に認めていたら無秩序な社会になってしまいます。

例えば、ある人が自分には人権があるんだ、とあたりの木を切り倒して豪邸を造り、スポーツカーで暴走しているとします。
すると、他の人たちも同じことを行ないます。環境は破壊され、交通事故は絶えません。


そこで、人権を制限します。人権を制限できるのは人権だけです。
人権と人権の衝突を調整するための実質的公平の原理が公共の福祉なのです。

しかし、何でもかんでも公共の福祉で人権を制限しては本末転倒です。
どんな権利どの程度制限されるのか、を考えるのが、人権と公共の福祉の問題です。




2 比較衡量論


人権と公共の福祉がぶつかりあう問題を調整する方法として、まず比較衡量論が行なわれました。

比較衡量論とは人権を制限することによってもたらされる利益と人権を制限しない場合に維持される利益とを比較して、どちらの方が利益が大きいだろうか、と比べる考え方です。

この考えを採用した判例に、博多駅テレビフィルム提出命令事件(9章二)や全逓東京中郵事件(本章二2)などがあります。












ところがそう単純にはいきません。比較衡量論には欠点があります。

例えば憲法では表現の自由を保障しています。
詳しくは9章で説明しますが、表現の自由とは自分の思っていることを自由に外部に公表することをいいます。
表現の自由は誰にも平等に認められています。

あるオジサンが鉄道のない街に鉄道を造りたい、と呼びかける運動をしていたとします。
誰でも自由に自分の思ったことを言えるのが表現の自由ですから、当然問題ありません。

しかし、周りの住民たちにとってそのオジサンの呼びかけが交通の邪魔になったり、昼寝の妨害になったりすることもあります。
そして住民たちはそのオジサンを訴えたとします。

もし裁判官が比較衡量論だけで考えて判決を下すと、数の多い住民の方の利益を優先することになります。
数で劣るオジサンの表現の自由は軽視されてしまいがちです。

このように比較衡量論ではどうしても多数の利益を優先し、少数の利益を軽視してしまいます。
これが比較衡量論の欠点です。比較衡量論も有効な考え方の1つではありますが、万能ではないのです。








3 二重の基準論



そこで、比較衡量論の次に、具体的な違憲審査の基準として主張されたのが、二重の基準論です。

二重の基準論とは、精神的自由権を制約する場合と、経済的自由権を制約する場合とで、裁判所の審査基準を変えてみよう、という考え方です。

経済的自由権では緩やかな審査基準を用います。
精神的自由権では厳格な審査基準を用います。

経済的自由で使われる緩やかな審査基準とは、「誰の目から見ても明らかに違憲という場合以外は、裁判所は違憲という判断をしない」というものです。

精神的自由で使われる厳格な審査基準とは、「ここを越えたら違憲だという線を少しでも越えたら即、違憲の判断を下す」というものです。








精神的自由と経済的自由とで審査基準が異なるのは2つの理由があります。

1つ目は、統治機構の基本をなす民主政の過程を守るためです。
2つ目は、裁判所の審査能力との関係があるためです。

1つ目の統治機構の基本をなす民主政の過程を守るため、とはどういうことかを説明します。

民主政の過程を支える精神的自由はこわれ易く傷つきやすい権利です。
したがって精神的自由権は裁判所がしっかりと守らなければならない権利なのです。
民主政とは国家の主権が国民にあり、国民の意思に基づいて政治が行なわれることをいいます。

例えば、現在コメは輸入が制限されています。これは経済的自由権の制限です。
しかし、コメの輸入の制限をなくしたい、コメの輸入を自由化させたい、と思っている人がいるとします。

これを国に申し出ましたが、その申し出は断られてしまいました。
この場合、経済的自由権は制約されてしまいましたが、民主政の過程は守られています。

再度、申し出ることもできますし、コメでなく別の物の輸入自由化を申し出ることもできます。

もし、表現の自由が制限されてしまったらどうなることでしょう。

表現の自由は精神的自由権です。これは精神的自由権の制限です。

例えば国が制定した法律に不満を述べたら処罰する、という法律ができてしまったとします。
すると、国民は国に対して文句を言えません。
この場合、精神的自由権が制約されてしまったため、民主政の過程が守られていません。

国民は誰も発言できなくなり、国は好き勝手なことをしてしまいます。
民主政の過程は一度壊れてしまうと回復することが難しいのです。


2つ目裁判所の審査能力との関係があるため、とはどういうことかを説明します。

経済的自由の規制については、社会・経済政策の問題が関係することが多いのです。

社会・経済政策の問題を扱うには専門知識を必要とします。
裁判所はそうした社会・経済政策関係の専門知識がなく審査能力が乏しいのです。

よって裁判所としては、とくに明白に違憲と認められないかぎり、立法府の判断を尊重します。
裁判所は社会・経済政策関係には口出ししない、というわけです。

先ほどの例と同様にコメの輸入を自由化させたいと思っている人がいるとします。
これは経済的自由権の制限です。その人は輸入自由化を国に申し出ましたが、その申し出は断られてしまいました。

国側にも日本の農業の守るため、という理由があったのです。
国はその人の申し出を断る際に専門家の出した統計データや調査報告書を理由の裏づけとして挙げました。

社会・経済政策関係の専門知識がないと、これらデータの良し悪しがわかりません。
裁判所はこうした社会・経済政策関係の専門知識がないため、口出しすることができない、というわけです。

しかし、もし精神的自由権が制限されてしまった場合は裁判所のお出ましです。
精神的自由権に関する制限は社会・経済政策の専門知識がない裁判所も審査できます。

先ほどの例と同様に、国が制定した法律に不満を述べたら処罰する、という法律ができてしまったとします。
国民は裁判所に駆け込み、こんな不当な法律を廃止してくれ!と訴えました。

この場合、合憲か違憲かを判断するのに社会・経済政策の専門知識は必要ありません。
裁判所の裁判官は審査して違憲判決を下すことができます。


このように裁判所は、精神的自由と経済的自由とで異なる審査基準を持っています。これが二重の基準論です。






【まとめ】
第2部 基本的人権の尊重
第6章 基本的人権の限界
一、人権と公共の福祉

1、人権と人権の衝突を調整するための実質的公平の原理が公共の福祉である。

2、比較衡量論とは、人権を制限することによってもたらされる利益と人権を制限しない場合に維持される利益とを比較して、どちらの方が利益が大きいだろうか、と比べる考え方である。
比較衡量論は多数の利益を優先し、少数の利益を軽視してしまう欠点がある。

3、二重の基準論とは、精神的自由権を制約する場合と経済的自由権を制約する場合とで裁判所の審査基準を変えてみよう、という考え方である。
経済的自由権では緩やかな審査基準を用いる。
精神的自由権では厳格な審査基準を用いる。

                     ケンくんノート


第2部 第6章 基本的人権の限界 一、人権と公共の福祉 おしまい

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